本間先生との思い出


1.はじめに

2003年8月1日、日本点字図書館会長 本間一夫氏が、逝去されました。図書館で、「本間先生」とお呼びすることが多かったです。先生のお側で10年近く仕事をさせていただきましたが、私にとって、とっても尊敬できた方でした。私は先生の大ファンでした。先生からは、多くのことを学ばせていただきました。
友人から訃報のメールをもらった時には、本当に泣けてしまいました。
本間先生は、五歳で失明し、その後、ご自身で点字図書館を作られ、あらゆる苦労を乗り越えながらここまで点字図書館を育ててこられました。
それまでの道のりや内容は、先生ご自身の書かれている「指と耳で読む」(岩波新書)をはじめとするいくつかの本や、日本点字図書館のHP等で、ご理解していただけると思います。

そして、ここから以下に書くことは、本間先生を偲び゛、私から見た先生の姿を、思い出として書き留めておきたいと思います。

2.先生の初めてのお供

図書館の職員になって、館内の各部署を転々と体験する職員研修を、1カ月間体験しました。その期間内で、初めての土曜日出勤の日に、ようやく自分の部署で1日仕事をする日がありました。朝出勤すると、同じ係の先輩に、その日の午後、図書館の近くで催される会合に本間先生が出席するので、お伴をするようにと、言われました。
私は、それまで実際に視覚障害者の方の手引きをしたことがありませんでした。いきなり偉い方のお供で、おまけにそれも全く土地勘のない場所を行く等と、プレッシャーになるような条件がいっぱいだったので、とってもドキドキしてしまいました。
時間が来て、早稲田通りを、緊張しながら先生と歩いていきました。その往復のときに、初めて一対一で、先生とお話をする機会ができたわけです。そしてそれはまた、先生と時々一緒に外出したり、いろんな話をする事の始まりでもありました。出発する前は、どうなるのだろうと心配していたのに、先生とは話が弾みました。私の家族や学生時代の話や、先生が視覚障害者にとっての歩行の難しさや、白杖がどんなに大切な物であるか等を話してくださいました。話をしていたら、いつのまにかそれまでのガチガチとしていた緊張感が、解けていました。
図書館に帰館したら、会合で出たお菓子を、茶目っ気たっぷりに「お駄賃だヨ」と言いながら私にくださり、このときのことは、印象深い思い出となりました。

3.タクシーの思い出

先生は、朝日カルチャーセンターの点字講習会で教えていらっしゃいました。そのときも、時々送り迎えをする機会がありました。
帰りはタクシーを使って図書館まで戻ってくるのですが、初めてお伴をしたころは、私は車で帰る道順が全くわからなかったので、図書館までの道順を、先生がタクシーの運転手さんに説明してくださっていました。
あるとき、先生が車中で、ウトウトなさっていました。そのとき、運転手の方に、次にどちらに道を曲がるのかと聞かれて、私は間違った方を言ってしまったら、「いや左だよ」と、いきなり先生の声がしました。寝ているようで、ちゃんと聞いていて状況がわかっているんだなと驚かされてしまいました。
タクシーの運転手の方と先生との会話が、時々ありました。
そういえば、先生は、熱狂的な西武ライオンズのファンでした。(西武が日本一になったときなど、館内で働いている人たちに、コージーコーナーのジャンボシュークリームをご馳走してくださったりしました)。タクシーの運転手の方が、新宿から所沢の宿舎まで、西武の選手を乗せたことがあるという話をしてくださったときには、先生はとっても喜んで、身を乗り出して話していたことも、懐かしい思い出でです。

4.チャリティー映画会のお願いまわり

夏になるとチャリティ映画会の関係で、先生と共に、いろいろな団体に協力のお願いに出かけました。電車を乗り継ぎ、暑い中を二人でチケットとチラシを持って、あっちこっちと移動するのですが、これが結構大変な仕事でした。お歳を召した先生にとっては、この仕事は、とっても体力的にきついことだと思いました。でも、先生は精力的にまわられ、一所懸命に相手の方に対してお願いをされていました。
いつの時だったか、お願いまわりで、あっちこっち歩いているとき道がわからなくなって、先生に東京駅付近の地下街ををたくさん歩かせてしまったことがありました。でも先生は「今日はとっても暑い日だったから、地下を涼しく歩けて良かったよ」とおっしゃってくださったことがありました。
チャリティーのお願いで外出するときは、、先生がお昼をご馳走してくだいました。そういう時、「何になさいますか?」と伺うと、トンカツやカレーという答えがかえってきました。
「先生は大根類がお好きじゃないので、必ず注意して」と、職場の先輩達から教えていただいていたので、福神漬けなど漬物類の付けあわせがついているときには、先生に説明して、私が食べる前に取り除かせていただきました。
そして、甘いものが大好きな先生でもありました(ただし最中は皮が嫌いだといって、苦手だったようです)。
暑い中を歩いているとき、「全部今日の日程が済んだら、後でかき氷を食べることにして、頑張ろう」と励ましあいながら出かけて、帰りにお約束通りにそのかき氷を食べたこともありました。確か「僕は水蜜のかき氷がとっても好きなんだ」とおっしゃっていました。

5.先生と音楽

先生は琵琶がお好きでした。いろいろな方の演奏を聴いていらっしゃるので、とっても琵琶に対しては、耳が肥えていて、知識が豊富でいらっしゃいました。時々、琵琶の内容や奏者の話などを私に説明してくださることがあったのですが、琵琶に対しては知識が乏しい私でしたので、話し相手としてはとっても役不足で、申し訳なく思いました。
また、現在はなくなってしまいましたが、図書館の中で有志が集まって、お昼休みに昔の建物の三階集会室で、コーラスをやっていました。、私も歌っていたのですが、あるとき「荒城の月」を練習していたときがありました。休み時間がおわって部屋に戻ってくると、その真下の総務の部屋で、先生が「荒城の月」の鼻歌を歌いながら、点字を打っていらっしゃったことがありました。

6.人と人との出会いを大切に

この点字図書館は、点訳や朗読の奉仕をしていただいたり、事業運営の資金不足に対して、寄付を頂いたりと、多くの人々に支えられてなりたっています。。
本間先生は、その支えてくださっている方々のことを、いつもいつも大切に思っていらっしゃいました。そして、細かい数字はもちろんのこと、その協力者の方々のデータを、頭の中にコンピュータがあるのではないかと思うくらいにご存知で、記憶力の良さには、脱帽していました。
私が募金の仕事をしていたときには、お忙しい中、できる限り、お礼の点字の手紙を書いていらっしゃいました。事務的な文章の手紙ではなく、その方その方を考えて、心を込めて書いていらっしゃいました。
そして図書館には、全国から、そして海外からと多くの人々が来館されています。特に、視覚障害者関係の団体やボランティアの方をはじめ、点字図書館内を見学される方が多いのでした(要予約)。
盲学校の生徒さんは、修学旅行の訪問先の一つとして、図書館を訪れていましたが、時間の許す限り来訪者と、先生はたくさんの方々と会われてお話をされていました。
話の内容も多岐に渡っていました。中には来訪者が、ご自身のことや、その身内の方のことで悩みを持ち、その不安を先生に話されることもしばしばありました。
どんなときでも、先生は丁寧に和やかにそして親身に応対なさっていらっしゃいました。側で聞いていた私自身にとって、そういう先生と来訪者との交流の場で、図書館の事業や視覚障害の世界について新たな知識を得たり、考えさせられたりと、勉強になることが実に多かったです。

7.最後に

若輩者の私が言うのもなんですが、本間先生の笑顔は、見ていて人を和ませるものがあり、チャーミングでした。純粋で、お人柄が本当にすばらしくて、魅力的な方でした。華のある方でした。先生は人に対して、とっても温かく見守ってくださいました。先生は、たとえ何かでミスしても、次のチャンスを与えてくださいました。相手の良いところを、まっすぐ見てくださる方だったのです。
あるときに、「はるるさん(本当は私の苗字ですけれど)、一所懸命念じて努力すると、必ず道が開けるときがあるんだよ。」というようなことを私に話してくださったことがありました。後退しないで、前向きに一歩一歩と歩いてこられた先生ならではの言葉だったと思います。本当に生涯現役だった人生が、うらやましいです。
先生にお会いして、人との出会い、そしてつながりを大切にしていくことの素晴らしさを、先生から教えていただいたような気がします。

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このページの更新日:2004年02月23日
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